エマ・ワトソン氏国連スピーチへの雑感

考察

英国人女優、エマ・ワトソン氏が国連で男女平等を訴えたスピーチが評判を呼んでいる。

こちらのサイトで全文紹介されている。

【全文】「今こそフェミニズムを見直すべき」 女優エマ・ワトソンが国連で“男女平等”を訴えたスピーチ

内容は示唆に富んでいる。

エマ・ワトソン氏は、フェミニズムは女性だけのものでなく、男性へのジェンダー・バイアスをも解放するものだと主張している。

少なくとも日本においては、フェミニズムの理論や理念が都合の良いようにゆがめられ、「自分にとって気に入らない相手を攻撃したい」という攻撃性を「女性」の看板で正当化し、「相手のことが気に入らない」→「たまたま自分は女性で相手が男性」→「気に入らないから、女性の看板を振りかざして脅せばいい」という乱暴な三段論法がまかり通ってきたきらいがある。

ツイッターなどでも「ツイフェミ」と言われる一連の勢力が、そういう乱暴な攻撃を繰り返している。

そういう誤った似非フェミニズムによって、身に覚えがないのに攻撃された男性はもちろん、女性も含めて不要な反発を招く。しかしその反発や批判に対しては、さらに似非フェミニストが「差別された」と威嚇するという悪循環に陥る状況になっていた。

こんな現象が発生する根本には、少なくとも日本においては、フェミニズムを自称する者ほどジェンダー・バイアスに強くとらわれている傾向がある(もちろんすべてではない)という課題があるように感じる。

女性保育士の男児へのおむつ替えには何も言わないのに、男性保育士の女児へのおむつ替えについては、まるで男性保育士全体が性犯罪者のような扱いで業務から外せとクレームがつく。千葉市長が「そんな理由で男性保育士を業務から外すのは男女平等に反する」という趣旨を表明すると、一部の自称「フェミニスト」が反発し、中には罵倒の域といえるものまであった。

ある大学で男性が女子大への入学を志望したが拒否された事件もあった。これは、栄養士志望の男性が、家庭の経済状況から「自宅から通える国公立」しか志望できなかったが、栄養士資格が取得できるのは公立の女子大しかなかったというものである。男性というだけで学べないのは性差別にもあたるし、学習権にも引っかかるのではないかというのが、問題提起の本質である。しかしそのニュースが報じられると、「リベラル」や「フェミニズム」を自称する女性も、「女子大はあって当然」という直接関係ない命題にすり替え、その男性を「騒ぎを起こしたいだけの者」かのように攻撃するような風潮が出た。

似非フェミニズムは、女性への差別や不利益には敏感な一方、男性が差別や不利益を受けていると訴えた場合には率先して攻撃したり、男性への「男はこうあるべき」というジェンダー・バイアスについては驚くほど鈍感な傾向が見られる。

そういう似非フェミニズムは結局、ジェンダー・バイアスを基調にして「おいしいところどり」になる。「女性の看板を印籠のように振りかざして脅せば、ないしは看板で殴りつければ、相手がひれ伏してわがままが通る」とばかりに、表向き「フェミニズム」に見せかけながら、自分は経済的にも体力的にも強い男性から守られて当然、男性は自分たちのわがままを甘やかして当然、家事や看護・保育など「女性の仕事」と思われがちだった分野に進出する男はキモいというダブルスタンダード言動になる。また、本当の意味での男女平等を目指した進歩的・リベラルな男性に対して「自分たちを甘やかしてくれない」と逆恨みで言いがかりをつけて逆に女性差別主義者のレッテルを貼ろうとしたり、病気や失業などの事情で体力的・経済的に弱い状況に置かれている男性に対しては「自分を守ってくれない=敵」と見なして一番差別的に攻撃するというとんでもない行動に陥る。

保守反動と似非フェミは、正直言って全く区別がつかない。

本来のフェミニズムは、女性の看板を振りかざして気に入らない相手を脅したり、わがままを通そうとすることではない。女性も男性もともに人権が尊重され、ステレオタイプ的なジェンダー・バイアスにはめずに自分らしく人間らしく生きられるようにしていくための理論が、本来のフェミニズムではないか。

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